Surely the world is full of unbelievable things.

そう、専門家の間では*1、すでに建設の進んだ概念をつかって簡単に会話が成り立ち、最先端の問題を瞬時に共有できるとしても、この問題意識を専門外の人に説明するには、極簡単な説明にすら多くの時間をとられてしまうことが多い。同じ物理学のなかでも。まして、説明したい専門用語の発音がたまたま日常用語のある単語と似ている場合にはなおさらだ。こうして、この素晴らしい発見と問題を熱心に広めがっている専門家と、新しい知見を得たいと切望する専門外の人がせっかく出会ったとしても、専門家は結局無知には口を閉ざし研究に専念したほうが実り多いことを悟り、質問者はあまりにもトリビアルなことをなぜか必死に研究しているこの分野に手を出さなかったことの幸せと少し手を出してしまった後悔を味わう。

僕の友達には僕よりかよっぽど文系慣れというのかな、議論慣れしている人が多いので、僕はよく「一度、聖書を熱心に信じている人に進化論を説得してみるといい、一度、風水を信じている人に、北西の黄色い財布と金運はなんの相関もないことを説得してみるといい」と言ってもらえる。
問題は、単にアルゴリズムを覚えたりなにかを信じたり(believe)するのはたやすいが、なにかを信じている人に、信じることをやめさせる(unbelieve)のはとてつもなく難しいということだ。ということは、放っておくと人はほとんどunbelieveせず、ランダムなものをbelieveしていく。
実験に基づく客観的な体系と銘打たれた物理学の世界ですら、状況は少しましになる程度だ。たとえば観測問題をやっている人が、そうでない人の「観測すれば波動関数は収縮するだろう」という発言を聞くときの落差は、物理学を信じている人と風水を信じている人の落差ほどもあるというのだ。こういう相手とであったらまず相手をunbelieveしないことには、素敵な話は出来ない。

立派な物理学者になるためには、たくさんのことをunbelieveしなければならない。しかも自分で自分をunbelieveするのは困難なので、誰かにunbelieveしてもらう必要がある。その必要があったはずじゃないか。

なぜなら自然は驚くべき(unbelievable)ことで満ちているからだ。それに出会うや、あれほど困難だったunbelievingが可能(able)になるような、驚くべき現象に。



物理のフレームワークの共有すら不十分な学生-学生の間でも2時間目から昼ごはんまでの時間をつかえば理解は通じるものだし、最低限のunbelievingを済ませた人にとって先生はもっと偉大だ。論文を読むことも出来る。

*1:専門の先生と、その専門に熱心な学生でもいい