自動車教習所 初日

三人の人物が免許を取りにいきました。


社会学者は、

免許証とは、所持者が車社会の構成員であることを示すものである。車社会−道路の上に構成され動的に維持されているそれ−は社会である以上、多数の公然・暗黙のルールを持つ。したがって、自動車教習とは、車と車、バイク、人などの間に成立しているそれら了解事項を学び、彼らと意思疎通をはかる方法(プロトコール)を知るということである。

車たちがなす複雑系を研究しているということか、面白い、と思いました。



教育者は、

車は一歩間違えば人命を危うくする凶器であり、車の運転という自由を得るにはそれだけ重要な責任が伴う。躾を十分丁寧にやる必要があるから、お躾と感じられても受け入れて欲しい。

この教官先生には厳しさで生徒をひきつける魅力がある、と思いました。



プログラマーは、

常に複数のポイントに気を配りながら目、耳、手、足を独立に操作するという体験はプレイヤーに新鮮な緊張感を与えるだろう。もっとも、プレイヤーが衝突を回避せねばならないオブジェクトの数は少ないとはいえ、常に高速でスクロールし、さらに衝突したらその場でゲームオーバー、という設定は、初心者にとっつきにくさを感じさせるかもしれない。コンティニューに必要なコストの大きさも考えればなおさらである。歴史に学ぶならば、自動車の当たり判定をグラフィックの中央1ドット程度にする、もしくはプレイヤーが危険を察知したときの緊急回避手段として周囲の危険オブジェクトをすべて破壊する回数制限つきの強力な攻撃手段を与える、などの改良を加えるとよいだろう。また、このゲームでは、別のオブジェクトに隠れているとか、カメラの後方から接近するとかの、プレイヤーから見えないオブジェクトに衝突することが良くある。このような方法でゲームオーバーになると、プレイヤーに理不尽感を与えるので、プレイヤーの視界をさえぎるオブジェクトは半透明で描画し、視野外からオブジェクトが接近しているときは効果音とともに警告を表示する、などの工夫が必要だろう。

などのことが頭をよぎりました。



もちろん、偉大な人間物理学者カント先生がいうには

道徳法則は人物の交換にかんして対称でなければならない。

僕は自動車にひかれるとか嫌なんで、真剣に受講してますよ。